戦争がどこか遠くの他人事ではなくなったようにやっと感じるようになった今、戦争でおきた悲劇は知っていても、その戦争がなぜ起きてしまったのか、何を巡った争いだったのかを何も知らないことに気がつきました。
第二次世界大戦で原爆が落とされたのは、今からつい77年前の出来事。
海外旅行へ自由にいけて、食べるものにも困らない今の日常は、ほんのつい最近になって手に入った平和な日々なんだと気がつきます。
また日本に住む私たちが目を向けていないだけで、世界中では未だ戦争の絶えない地域もあり、この平和な日常は簡単に崩れ去ってしまうほどに脆いものなのかもしれません。
平和な日々のありがたさに気付いたからこそ、改めて過去から学び、同じ悲劇を繰り返さないように理解していきたいと思いました。
今回は世界中で起きてきた主要な戦争の原因や背景、そしてその結果を年代順に簡潔にではありますが、個人の見解も交えながら学びの記録としてまとめていきます。
1775年 アメリカ独立戦争
原因ときっかけ
1755年のフレンチインディアン戦争(イギリス🆚フランス)で勝利したものの、戦争によってお金がなくなってしまったイギリスは、植民地であるアメリカに住む人々に重い税をかけました。
その結果アメリカの人々は怒り、イギリスの貿易船を襲って積荷のお茶を海に投げ捨てた〈ボストン茶会事件〉をきっかけに戦争が始まりました。
結果
アメリカを支配しているイギリスを妬んでいた、フランス、オランダ、スペインによる応援や、ロシアのエカテリーナ2世の諸国への呼びかけによる助けもあってアメリカ軍が勝利。
パリ条約でイギリスはアメリカの独立を認めました。
1776年7月4日アメリカの独立宣言で「すべての人は平等で、自由や幸福を求める権利がある」と述べられましたが、その中には黒人もインディアンも入っておらず、奴隷制度は残り、その後も奴隷は増え続けました。
1840年 アヘン戦争

原因ときっかけ
紅茶や絹、陶磁器などを中国から輸入していたイギリスは代金として大量の銀を中国に支払っていましたが、経済的に銀の流出を避けたいと思ったイギリスは植民地のインドを加えた「三角貿易」を始めました。
イギリスはインドで製造したアヘンを清(中国)に輸出することで清の国内はアヘン中毒の人々が増え、イギリスは巨額の利益を得ることに成功しましたが、この状況に清(中国)はアヘンを持ち込ませないように全面禁輸にしました。
それに怒ったイギリスが軍を清(中国)に送り戦争が始まりました。
結果
戦争はイギリスが勝利し、中国はとても不利な「南京条約」を結ばされ、その後中国は、ヨーロッパの国々にどんどん侵略されていきます。
南京条約は香港をイギリスに受け渡す、多額の賠償金をイギリスに支払う、貿易港を5つ開くなど不平等な内容でした。
その後、香港は1997年まで返還されませんでした。
1894年 日清戦争

原因ときっかけ
明治時代を迎えて、大陸へ勢力を広げようとした日本は朝鮮半島の支配をめぐって清と対立していました。
1894年に起きた朝鮮での内乱(甲午農民戦争)の処理をめぐって、日本と清の対立が激化し戦争へと発展しました。
結果
戦争は日本が勝利し、清は朝鮮半島の独立を認めること、日本に賠償金を支払うこと、清の一部の領土(遼東半島・台湾など)を日本に譲ることなどが「下関条約」で決められましたが、日本が領土を拡大することをよく思わなかったロシアはフランス・ドイツと共に遼東半島を清に返すよう要求(三国干渉)し、日本政府はこれを受け入れざるを得ませんでした。
1854年まで鎖国していた日本にとって、日清戦争は外国を相手にした初めての戦争でした。
1904年 日露戦争

原因ときっかけ
1900年に清(中国)で起きた義和団事件とよばれる宗教団体(秘密結社とも言われている)の闘争を止めるため、日本・イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・イタリア・ドイツ・オーストラリアの8カ国の連合軍が出兵し、日本とロシアが主力となって鎮圧しました。
その後、ロシアは満州から撤退することなく、朝鮮半島にまで勢力を伸ばそうとしていたことから、朝鮮半島への進出を狙う日本と対立し戦争が勃発しました。
結果
アジアの小国がロシアに勝てるはずがないと世界中の人が思っていた中、厳しい戦いをつづけ対馬沖の日本海海戦で東郷平八郎の指揮する海軍がロシアのバルチック艦隊をやぶって日本が勝利しました。
その後アメリカ仲介のもと、ポーツマス条約が結ばれ、日本は朝鮮半島の支配権や樺太の南半分を得ました。
戦争に勝利したものの、ロシアから賠償金を取れなかった日本では、戦争の資金をおぎなうために多くの税金を納めていた人々が怒りを爆発させ、暴動を起こしました。(日比谷焼きうち事件)
1914年 第一次世界大戦

オーストリア・ハンガリー帝国の同盟国側であるトルコ・イタリア・ドイツとセルビアの連合国側である、ロシア・フランス・イギリス・日本・アメリカが同盟国側と連合国側に分かれて戦いました。
原因ときっかけ
オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子がセルビア人にサラエボで暗殺された〈サラエボ事件〉をきっかけに、ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告し、戦争が始まりました。
この当時、各国は「他国に攻められたら助け合う」という軍事同盟を結んでいたことや、利益の対立から世界の国がつぎつぎに参戦し、世界を巻き込む大戦争になっていきました。
日本はイギリスとの間に結ばれていた日英同盟があったため、連合国の一員としてこの戦いに加わっています。
結果
1918年にドイツが降伏し同盟国側の敗北で戦争が終わります。
翌年フランスのパリで講和会議が開かれ、ドイツはすべての植民地と領土の一部を失い、多額の賠償金を支払うことになりました。(ベルサイユ条約)
巨額の賠償金を支払うために、通貨の量を増やしたドイツでは戦後5年で1兆倍のインフレが起きました。
この戦争では科学の発展に伴い、戦車や飛行機、毒ガスなど新しい兵器が使われました。
一方、日本ではこの戦争で輸出できなくなっていたヨーロッパの国に代わって日本が輸出を行ったことで、好景気にわき、機械や造船などの重工業や、化学、薬品工業が発達し、工業国としての基礎が築かれました。
1937年 日中戦争
原因ときっかけ
日本陸軍が南満州鉄道を爆破し、これを中国側のしわざとして軍事行動を開始した1931年の「満州事変」をきっかけに、大不況に見舞われる日本は新しい土地や資源を求めて、中国東北部である満州を占領し満州国を建国しました。
さらに勢力範囲を広げようと中国の都市を次々と占領し、盧溝橋(ろこうきょう)で起きた発砲事件をきっかけに日本軍と中国軍は戦争状態に入ります。
そうした侵略を受けて、これまで対立していた中国共産党と国民党は手を結び日本と戦いました。
結果
日中戦争は太平洋戦争が始まってからはその一部となり、それらを含む第二次世界大戦とともに1945年8月に日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をすることで終結しました。
1939年 第二次世界大戦

連合国側はソ連・アメリカ・イギリス・中国・オランダ・フランス・ポーランド、枢軸国側はドイツ・日本・イタリア、戦争に反対する中立国はスイス・スウェーデン・スペインなどでした。
原因ときっかけ
ドイツ軍がポーランドに攻め込んだことをきっかけに、ポーランドと条約を結んでいたイギリス、フランスはドイツに宣戦布告し、その後それぞれの国が「領土を広げたい」「相手国にこれ以上、力を持たせたくない」など、それぞれの思惑を持って、世界をまき込んだ第二次世界大戦が始まりました。
結果
1945年5月にドイツが降伏、8月にアメリカ軍が広島と長崎に原爆を投下したのち日本がポツダム宣言を受諾して降伏し、終結しました。
1941年 太平洋戦争

原因ときっかけ
日中戦争ではイギリス・アメリカの中国への補給路を断つなどのために、日本はさらに現在のベトナム・カンボジア・ラオスなどにも侵攻していきました。
そんな日本の動きを見て、アメリカは日本への石油などの輸出を禁止する経済制裁を行い、危機感を募らせた日本は1941年12月8日ハワイの真珠湾を攻撃し「太平洋戦争」が始まりました。
結果
1945年、8月14日に日本への降伏要求の最終宣言であるポツダム宣言を日本が受諾し、9月2日第二次世界大戦とともに終結しました。
世界の戦争とその歴史 まとめ

過去に起きてきた戦争は、何のために争ってきたものだったのか、それを知りたくて、ひとつひとつ学び直してみた中で感じたのは、どの国も自国を良くするため、豊かにするために戦ってきたのだということでした。
そこに、個々の権力や地位への欲が混ざり合い、国外とは駆け引きし、国内を必死でおさめながらどの国もやっていく中で起きてきた争いだったんだと感じます。
かつて平和を願うチャップリンが述べたという「私は愛国主義者ではなく、国際主義者だ」という言葉を思い出し、愛国心は地球の中では隔たりとなって人と人とを傷つけさせるのかもしれないと思わずにはいられませんでした。
過去の過ちを乗り越えた今、自国に誇りを持ち大切に思いながらも、地球単位で考えることで、同じ過ちを繰り返さずに平和への道を進んでいければと深く思います。
参考
↑テーマごとにイラストと手描き文字で解説されていて、とても分かりやすかったです。残念ながら現在は販売終了につき高値で取引されているものしかない様子。。
・【並べてみれば、発見がいっぱい!日本と世界の歴史 対比事典】
↑国ごとの年表や見開きで左右に日本史と世界史が同時に解説されていて、見比べながら学びやすい一冊でした。
・Wikipedia
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